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shun.memo

20101112

アラン・リクトという人が書いた、「サウンドアート 音楽の向こう側、耳と目の間」
を読んでいる。そのなかで早速興味深い章を見つけた。
「池田亮司とフランシスコ・ロペスー禁欲と欠落」。

この本が論ずるに、今の池田亮司やカールステン・ニコライのルーツの直系は
ドナルド・ジャッド等のミニマリズムよりもむしろ、
「エクスペリメンツ・イン・アート・アンド・テクノロジー」という60年代後期の運動に
あるとされている。
この運動は知らなかったのでまた後ほど調べるとして、この文章中に引用された
クリストフ・コックスという人の、「音自体の体験を強調する」という池田亮司の
作品に対しての言葉が的を得ていて、そして面白い。
池田亮司と並んでピックアップされているフランシスコ・ロペスというアーティストは、
「コンサートを始める前に観衆に目隠しをさせる」という手段を用いているそうだ。
池田亮司も作品の視覚的な部分に関しては、白と黒というシンプルな、ストイックな姿勢を貫いている。

この章で筆者は、「暗闇にすれば視覚が奪われるとはいえ、イメージの欠落もまた
"イメージ"ではないだろうか」と論じている。

エレクトロニック・ミュージックの強みとは、生の楽器や現実の自然の世界では決して
生ずることのない、音の拡張というものが一つある。音響のダイナミクスを
聴かせることと、視覚を断ち切るという行為は切っても切れない関係にある。
非日常な世界観を作るにあたって、音楽家は時間以外にも空間という要素をデザインすることが
必須であり、視覚的な部分、音の外側に生じるあらゆる要素を意図的に断ち切る
という方法が、音を鳴らすというメインの要素と同等の配慮を持ってコンポジション
されている。この筆者の論は、イメージの欠落という"イメージ"はコンポジションされた
結果としての「無」であるという主張なのだ。

視覚を断ち切るというという方法以外にも、例えば池田亮司は自身の圧倒的な情報量を
持って進む音響の高速さ、スピードを同期するようなテンポでの映像を
ライブパフォーマンスで用いる。「音自体の体験を強調する」試みとして、
「音楽の音楽による音楽のための音楽」から、その先をいったインタラクティブな、
しかし根底として「体験」を重ずる、新しくて、そして根源的な形を示したのが
池田亮司というアーティストではないだろうか。

# by shunichi_txt | 2010-11-13 00:51

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# by shunichi_txt | 2010-11-11 03:49